リン・イグザクトに想う 山口 孝

 馬齢のみを重ねたような自らの人生を振り返るに、音楽とオーディオの不思議に
捉われたまま、知らぬ間に約半世紀が過ぎてしまいました。
 オーディオに情熱を傾けることは、すなわち音楽をすることと同義であるが故に、
昔の書生のような生真面目さで、今も変わらず精進しております。
 それでもやはり最も夢中というか、日々進歩を実感するような成長をしていたのは、
学生であった20歳の頃だと思います。オーディオに対してやることなすこと全てが、
音楽の再生のうちに多様な表情をみいだしては、そのたのしみとおもしろみに、
際限なくとりつかれていたあの幸福な時代だったと思います。
 それは、思いつくままにありとあらゆる実験をしたということ。このようなことは、
自分の納得のゆくオーディオ・システムを入手し、それを演奏することができるように
なった30歳以降は、全くしなくなったことです。
 この実験の中で絶後の強烈な印象として、鮮やかに記憶していることがあります。
それは、スピーカー・ケーブルの長さで、音はどう変化するかという、ありきたりの
好奇心からでした。
3mと1mと5cm。5cmとはカートリッジのリード線にヒントを得たのです。両端1cmずつ皮を
むき、片チャンネルだけのスピーカーにプリメインアンプと背中合わせにして継ぎます。
レンガと雑誌で高さを調節し、やっとのことでセットできたという具合。
 嗚呼、それは真に形容を絶する、無論今までに体験したことのない事象でした。
 その衝撃は、初めてルディ・バン・ゲルダーのモノ・オリジナル盤を聴いた時の
圧倒的な感動、征服感のようなものとは全く違います。圧倒的というよりも、何故か頭が
瞬時に空ろになるような感じです。同様の体験を20年後にすることになります。

 芸術の大革命イタリア・ルネッサンス期には、時代を超越するような多くの天才達が
現れました。その頂点がラファエロであり、ミケランジェロであり、ダ・ビンチです。
でも、ヨーロッパにいて知ったことですが、実は彼等以上に人気のある画家がおります。
その1人に、ピエロ・デッラ・フランチェスカがいます。日本ですでに彼の画集はみていました。
どの絵も独特な静謐の内に調和している。とはいえ私には、どの絵もそれぞれの人物描写
において、ほとんどの顔に表情がなく、みな目が点になっているようにみえるのです。
昔、彼の絵は正直わかりませんでした。
 1997年、フィレンツェに1年間滞在した折、フランチェスカの本物が多くある
アレッツォに行きました。夏のような秋の日射しの中、駅からのなだらかな坂の道を、
とぼとぼと登ってゆきました。その頂上の途中に聖堂があり、そこにピエロの有名な
フレスコ画があるのです。
 未完のファサードから中に入りました。目がその暗さになれるまで少々時間がかかり
ましたが、あらためて目をすえて、奥の後陣の壁面に描かれた絵の前に立った途端、
まるで糸を緩められたマリオネットの人形のように、腰がクシャンと折れたのです。
そう、ほぼ等身大にみえる人物の一人一人が、全て覚醒していることが瞬時に
分かったのです。それは、画集では想いも及ばぬ異界の風景でした。仏教的に言えば、
解脱している人達の前に、己の野心がくだかれ、腰が立たなくなったということです。
 それが、私のイクザクト体験です。

 20歳の私は、オーディオの未来は必ず、ケーブルレスの時代であり、今この音は、
音として音楽として整えられていないが、いつかそれが成った時オーディオにとって、
今までにない革命的地平が開かれると直感しました。
 そして、2007年リンDSのスタート。2013年以来、幾度かこのリン・イクザクト・システムを
聴かせて頂いて、それは確信となりました。現在、最新のカタリストDACを搭載した
フラッグシップ・スピーカーによるイクザクトを目の当たりにし、この非凡なる
オーディオ・システムの真価を、多くのオーディオを愛する方々に伝えなければ、
という想いにかられます。
  大変難しいことですが、人間は遂には芸術を、つまり音楽を理解することはできます。
音楽は耳ではなく精神できくものだからです。そして、オーディオとは耳を通した心できく
ものです。心とは、知性と感性、つまり想いという糸で織られたベールのようなものです。
そのベールの内に、精神とか魂とかいうものがあるのかもしれません。
 心は常に変化します。これが全ての苦悩の原因です。苦行なのです。今日は最高の演奏が
できたと思ったら次の日は最悪。心の変化がその原因です。音楽は変わらずにそこにある。
でもいつも心がちがうようにきいてしまう。ですから幻音を追いかける。その正体をつきつめる、
つきとめることこそが、いつしかオーディオという行為そのものになってゆきます。
 苦行は続きます。そういった、オーディオで音楽をきく日々の中、DSによるイクザクトに、
遂に私は出会いました。あの5cmのスピーカー・ケーブルの発見から約40年後、
この圧巻というべきリンの整えた音は、正しく次元の違うという表現をはるかに超えた、
オーディオにおける最高の境地、もうこの先はないと想わせる透明な世界です。

 東京の白寿ホールでのことです。
 非の打ち所のない演奏と、超弩級の録音で世界的な話題となり評価され、SACDと
ハイレゾ配信によってヒットした音楽の実演のコンサートでした。
 開演のベル。私の席は幸運にも、私のためだけに演奏家が用意してくれたような席で、
その演奏家の優美な動作から直接音、ホールに回り込んだ間接音まで、私を包み込むように
音楽がありました。SACDに甲乙つけがたい、その確実な演奏に、この演奏家の実力が
世界レベルを超えた独創性故に、真の芸術家であることを証明していました。静かに、
ふつふつと湧いてくる小さな喜びのまま前半が終わりました。
 ロビーでは人々が、ワインやアクアを手に小声で話しながら、ホワイエを楽しんでいます。
私は設えたイクザクト・システムと対合う、数少ない椅子に座ることができました。
ロビーは知らぬ間に、ざわめきから喧騒に近いそれになっておりました。
 その時なんと、イクザクトは先程のステージと同じ曲を、静かに演奏し始めたのです。
私の耳は、一瞬でその音に釘づけになりました。ロビーの騒音が大きくなればなる程、
まるでこまくにはりついてくるように、私にはきこえてきました。いや、魂にはりついてくるような
音楽に、私の身体から何かが離れ、羽毛のように空中を浮遊し、次第に上昇するのをみて、
体が動けなくなってしまったのです。
 その時の私を支配したものは、このイクザクトの音こそリアル・実在であり、
先ほどのステージの音がアンリアル・非実在なのだという真摯な確信でした。
この逆転、何ということだろう、何がどうなったのかとさえおもいました。
 後半を告げるチャイム。最後に残った私はおもむろにホールに戻りました。
演奏は変わらず、ミスなどあろうはずもないという程の立派なものでした。
でもその間中、私には真のリアル・真の実在は、先程のロビーのイクザクトだという
強烈な想いが、一時も離れることはありませんでした。

 そして、その深夜、リンジャパンの畏友にハガキを一筆します。
 「イクザクトに、無幻をみた」と。
 無幻とは、幻が無いということ。つまり、幻がある以上、本体があるはずです。
幻はその反射・影だということです。幻が無くなることによって、そこにあるのは本体、
つまり真なるもの。それがなんなのかは、私には表現する言葉がありません。
でも私の魂はみたのです。
 私にとってオーディオとは、遂に人間の本質、真実にまで肉薄してきました。
これぞ、現代・近未来のオーディオの最前線だと思うのです。
 今こそ、オーディオの真の黄金時代なのかと思います。

2018年正月吉日